浅羽ネムの長いひとりごと

誰かの言葉に乗っかるのではなく自分の言葉を紡ぎたい。

ゴジラ−1.0(マイナスワン)


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ポスプロ協力に一畑電鉄が入ってたぞい!いろんな古い電車がボッコボコにされるからですかね!?*1こういうところに地元企業が入ってくるとは驚きですぞ。まあ一畑百貨店は来年1月で終了なんですけどね…。

 

最初に書いておくんですが、当方はゴジラどころか怪獣映画はあまり関わったことがありません。小中学の頃から初代ゴジラやその周辺の時代の怪獣映画だけを崇めて今の怪獣はダメだダメだと言ってる人ばかり見てきたから無意識のうちに関わりたくないジャンルと思ってきたところがあり、ウルトラシリーズが少しわかる程度です。山崎貴監督作品もちゃんと観たことないなー、ネットの人たちが「こいつはいくらでもバカにしていい」って認定してるフシがあるんだよなーという認識。以下に書くのはその程度の知識の者による感想だという前提で読んでください。

「1947年…戦争の傷痕もまだ生々しい時代…人々はそれでも立ち直り生きようとしていた…」「そこへゴジラが現れた!!!!!」(ざっくりとしたあらすじ)

敷島は戦時下においては臆病者と罵られる精神の人間だとは思う。特攻で死ぬのを恐れて機体の故障を装って大戸島に入り、そこに現れた怪物を前にして引き金を引くことができないまま整備員が殺されていくのを見ていることしかできなかった。そして帰ってきても日本を守れなかったと罵られる。ただ今の(とりあえずは)平和な日本で生きる者としてはそこまで彼を責めなくても…と思うのは確かで、心に深い傷を負いながらも慎ましくも幸せな日々を過ごしていくのはよかったねえよかったねえと思うもの。しかしこれはゴジラ映画なので幸せな日々は前フリに過ぎないのだ。

怪獣とは時代ごとに様々な厄災のメタファーだとは聞きます。例えばシン・ゴジラは震災、ウルトラマンデッカーのスフィアはコロナ禍といった感じ。そして本作のゴジラは「戦争」だ。このゴジラは人間を容赦なく殺すけど捕食とかではなく頭から咥えて叩き落とし、その太い足で踏み潰し、この巨大な尾で薙ぎ払う。それは人々の暮らしに入り込んで幸せを破壊する戦争と同じ。敷島にとってはようやくささやかな幸せを得たと思った時に過去に負った傷が追いかけてきたようなものだ。

よく「邦画しぐさ」と揶揄されるシーン、例えばやたらと叫び出すとかやたらと号泣するとかノルマみたいに入る恋愛とかが萎え要素と指摘される傾向はあって、本作にもそういうシーンがあるっちゃあるし、ドラマパートが何かもったりしてるような…とも思うのだけど、ゴジラの脅威がヤバすぎてそんなのは些細なことです。単純に物理的にデカすぎる!火力が効かない!!攻撃を受けてもすぐ再生する!!!こんなのどうやったら死ぬんよ!!!???思ったんですけど、「邦画しぐさ」が悪く言われるのってああいうのに対するシリアスや脅威がちゃんと描けてないから悪目立ちしてるんじゃないかなーってことは考えたり。ゴジラの物理的なデカさとか対抗する戦艦の物量とか、とにかく全体的に「広い画」が作られていてよかった。いや…「大画面で観てもテレビサイズやなあ」って思っちゃう映画って…あるじゃないですか…。何かストーリーを観るというよりは脅威を体験する映画なのかもしれない。

銀座が蹂躙されて典子を失い、敷島は文字通り命懸けの特攻を決意する。それは過去にそれができなかった自分との訣別であり、彼自身の中でずっと続いている戦争を終わらせることでもある。ただ典子は「生き残った者は生きていかねばなりません」と言っていたわけで、特攻はその思いに反することなのでは…?と疑問だったのだけど、実際の作戦行動によりそれは氷解致しました。身近に脅威が迫った時に無抵抗に攻撃されるがままというわけにはいかない、命懸けで立ち向かわなければならないこともあるかもしれない、しかし命懸けといっても本当に死んではいけないというのは、今現在世界中で起こっている不穏を見ながらグルグルと考えるところです。時代設定こそ戦後間もない時期だけどこれは「現代」の作品だなあ。

最後実は重傷を追いながらも典子が生きていたというのはご都合といえばご都合なんだけど、敷島の戦争がようやく終わった印と思えばまあ…と思ったらあの首筋何???ゴジラの背びれっぽくない?????と不穏を残した直後に実はゴジラが完全には死んでいないとわかるの、これって「1954年」に繋がっていくってことなんだろうか。

*1:古い電車の走行音に使われたそうです。