浅羽ネムの長いひとりごと

誰かの言葉に乗っかるのではなく自分の言葉を紡ぎたい。

パーセント

ドラマ制作に関わることを夢見ながらローカル局のバラエティ班でAPをやっている吉澤未来の企画書が通り、学園恋愛ドラマのプロデューサーに抜擢された。喜ぶ彼女に編成部長から「主役を障害者にでけへんか?」と要請が来る。取材やキャスティング選考を重なるうちに出会った車椅子の女子高生で劇団に通っている宮島ハルに心惹かれるものを感じた未来はハルを主演に推すが、関係者たちの意識がまとまらず数々の困難が立ちはだかる。

障害者と健常者。女性と男性。新人とベテラン。人と人の間には様々な壁があり、それは簡単には壊せないし、互いにわかりあうことは難しい。ではお互いに壁の向こう側に留まっていれば良いのか?ただそのままでも相手に傷を負わせてしまうことはあり得るんだ、ハルには演技は難しいのではないかと“配慮”して代役に演技させ、良い画が撮れたと喜び合っている健常者のスタッフたちのように。

学園恋愛ドラマに憧れてテレビの世界に入った未来は本来やりたかったこととはどんどんズレていく企画に落ち込みながらもハルや仲間の劇団員との交流やドラマスタッフとの関わりの中でやりたいことを見つけ出していく。未来は当初「薄っぺらいドラマに憧れる人もいるんだよぉー」と言っていたが泣きべそかいてもがきながら見つけた軸を持って完成したドラマは推しドラマのようなものとは違う「ハルの良さを引き出すためのドラマ」となっていたのだろう。クライマックスのところとかとても爽やかでしたわ。

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登場人物に障害者がいる設定のドラマもいくつか観たことはあるけどそのほとんどは演じてるのが健常者の俳優で、どこかで「それは“漂白”ではないのか?」という気持ちは確かにあった。NHKは前にも本物の聴覚障害者の俳優を起用したドラマ「デフ・ヴォイス」を制作していて、今回もハルや仲間の劇団員に障害を持つ俳優を出している。そのことで何が起こっていくかはまだ未知数なのだろうし、劇中でも言われた「障害者を見せ物にしてるのでは?」という声もあるだろうとは思う。ただ、「わかりやすいもの」「綺麗なもの」だけを映した世界は時にグロテスクなものになるのではないかという気もする。これは私が緑内障を患いいつか目が見えなくなるかもしれないという思いがあり、そうなった時に世界から除かれず生きていけるだろうかと考えてるからというのはある。自分が除かれないためには他人を排除しない方向でやっていきたいと考える、所詮エゴで生きてる人間ですよ私は。

ところで3話での撮影トラブル、

  • 制作スケジュールが限られている
  • 「わかりやすさ」を求める演出の意向で制作方針がどんどんズレていく
  • 新人Pの未来が頼りない

主にこれらが原因で起こっていて今ネットで紛糾している“報告書”の一件とかなり共通してるように思えて気が重かった。きっとああいう問題って原作付きドラマだけのことじゃなくて全てのコンテンツがああなる可能性があるのだと思う。